東京都では、東京のアスリートが、オリンピック・パラリンピックをはじめとした国際舞台で活躍できるよう、競技力向上に向けた支援を実施するとともに、社会全体でオリンピック・パラリンピックの気運を盛り上げるため、「東京アスリート認定制度」を創設しました。
このページでは、認定選手の皆さんに「スポーツを通して自分を成長させ、スポーツと社会のよりよい関係を考えていこう」というテーマで、インタビューをしていきます。
【プロフィール】
うちやま・てるまさ 1998年5月4日 北区生まれ 現在は東京都立文京盲学校3年に在学中
4月からは大正大学に入学予定
2015全日本視覚障害者柔道大会3位 2016全日本視覚障害者柔道大会2位
視覚障害者柔道90kg級で、東京2020パラリンピックの出場を目指す内山輝将選手。中学時代、尊敬する恩師から親しみをこめて、「ジャイアン」と呼ばれていたという。人気漫画のキャラクターだが、なるほど、大きな体と面倒見のいいガキ大将像が、ピタリと重なる。
子どもの頃から体を動かすことが好きだった。野球やサッカーにも心引かれたが、先天性無虹彩症という目の病でまぶしい光が苦手だったため、屋外の球技は諦めた。でも、「見えにくい」という弱みを知られるのは嫌で、水泳や体操、卓球など自分が活かせるスポーツには何でも挑戦した。
小学3年のとき、黒帯の父親に憧れ、近所の警察署で開かれていた少年柔道クラブに入部する。すぐに出場した試合ではあっさりと女子に負けてしまったが、逆に「いつか絶対に勝ってやる」と負けん気に火がついた。とはいえ、そう簡単には上達しないし、投げられれば痛い。その後の試合でも思うようには勝てず、「楽しくなかった」と明かす。
でも、柔道は自分で選んだ道。「小学校卒業までは頑張ろう」と踏ん張っていたら、いよいよ卒業間近というときに、コーチから「中学生になったら、クラブの主将を頼む」と指名された。期待されたら嫌とは言えない性格。辞めようと思っていたのに、辞められない理由ができた。「よし、あと3年、がんばるか」。そうして3年間、主将としての役目を全うし、柔道クラブを引退。「やっと終わった」と肩の荷を下ろした。
そして、筑波大学付属視覚特別支援学校中学部の卒業式を迎えた。式が終わり、担任だった寺西真人先生から声をかけられた。「東京2020パラリンピックで、お前が日の丸をつけて相手を倒すのを俺は待ってる」。この言葉は、内山選手の心に響いた。
2014年4月、東京都立文京盲学校に進学した。入学後すぐに体育の先生から、「出てみないか?」と勧められたのが、全国視覚障害者学生柔道大会だった。約半年前の2013年9月、東京2020パラリンピックの開催が決まり、多くの競技で新戦力を求めていた。柔道経験者の内山選手にも白羽の矢が立ったのだ。
辞めようと思うたびに辞められない理由ができて頑張ってきたら、思いがけずパラリンピックという世界への扉まで見えてきた。チャンスは誰にでも訪れるものではない。柔道を辞められない理由が、またできた。
中学時代の恩師の言葉は、今振り返ると、東京2020パラリンピックを目指すきっかけであった。今は、恩師との約束を守りたい、守らなければいけないという気持ちで、練習に励んでいる。
パラリンピックで行われる柔道は視覚障害者を対象とする。障害の程度によるクラス分けでなく体重別階級やポイントなど一般の柔道とほぼ同じルールで行われるが、大きな違いが一つある。組み合った状態から試合が始まることだ。いわゆる組手争いがなく、組んでからの技の展開が肝になる。
「これまで自分がやってきた柔道は何だったんだろう」。一般の柔道を7年間やってきて、組まずに投げるスタイルを磨いてきた内山選手には、柔道という名前がついていても、視覚障害者柔道は全く違うスポーツに感じられた。戸惑いは小さくなかったが、「小学生に戻ったつもり」で "新たな"柔道と一から向き合うことにした。
盲学校に柔道部はなく、父の通う練習会に週一回参加するほか、今は主に大正大学柔道部の練習に通っている。熊谷修監督が日本視覚障害者柔道連盟の理事で日本代表強化コーチも務めており、道が開けた。現役大学生の胸を借りることができ、毎日が刺激的で勉強になる。
できるだけ「組んで始める柔道」にも対応してもらうようにしているが、健常選手にとっては不慣れなことであり、思うような練習ができないこともある。組んで始めることができなければ普通にやって、投げたタイミングや組手を覚えておき、次に視覚障害者と組むときに試してみるといった発想の転換が必要なこともある。
それでも、転向して間もない2014年8月、内山選手は学生対象の全国視覚障害者学生柔道大会に出場して準優勝し、翌2015年には優勝を果たす。さらに、その年の11月には国内最高峰の全日本視覚障害者柔道大会にも出場し、3位に入賞。着実に力をつけている。
内山選手は元々研究熱心で、「自分でヒントを見つけて取り入れていくのが好き。我が道をいくタイプ」と話す。今は自分の未熟さや弱みを受け止め、他のスポーツや先輩らの助言にヒントを得て、自分のスタイルを確立したいと試行錯誤の毎日だ。
現在は肉体改造にも取り組む。実は一昨年、3位入賞した全日本大会で試合中、両大腿部に肉離れを起こした。当初は歩くこともできないほどの重傷で、リハビリにも取り組んだが、今でも患部に痛みが残る。また、左手首に脱臼グセもあり、握力が弱い。
そうした弱点を補い強みに変えるため、ジム通いも日課にしている。トレーナーのアドバイスのもと、ベンチプレスやデッドリフトなどウエイトトレーニングに励む。筋力アップはパワーに勝る海外選手と渡り合うためにも不可欠だ。また、組み合ったまま技を掛け合う視覚障害者柔道は体力の消耗が激しく、一瞬の気の緩みが命取りになるので高い集中力も必要だ。体と心の持久力を養おうと苦手なランニングにも挑戦。柔軟性を高めケガ防止になるストレッチ講座にも足を運ぶ。
得意技は背負投だが、技の幅も広げたい。まずは足技を増やそうと研究中だ。また、先輩パラリンピアンの中には柔術や総合格闘技などに取り組む選手も多い。内山選手も最近、サンボの世界大会経験のある知人から寝技を教わり始めた。
世界を目指す前に、まずは強い先輩たちを倒し日本一にならなければならない。やるべきことは山積みだが、幸い、今春からは大正大学への入学が決まっている。これまで以上に練習がハードになることは覚悟の上だ。むしろ、先輩や仲間たちと日常から刺激し合うことで、柔道の技術だけでなくアスリートとしての精神的な成長も期待できる。
順調にいけば、大学4年で迎える東京2020パラリンピック。そこでの活躍はこれまで応援してくれた人たちへの恩返しになる。さらには2020年以降も息長く活躍できる選手となって、障害を抱える人たちに、「諦めなければ夢は必ず叶う」というメッセージを伝えつづけたいと意気込んでいる。
視覚に障害がある選手を対象にした柔道で、男子は1988年のソウル大会、女子は2004年のアテネ大会から、パラリンピックの正式競技となっている。弱視、全盲など視覚障害の程度によるクラス分けはなく、体重別で戦う点も含め一般の柔道とルールはほぼ同じだが、大きく異なるのは、「組み合ってから試合が始まる」こと。一般の柔道に見られる組み手争いがないので最初から技の応酬となり、残り数秒での一本勝ちもあるなど見応えがある。
「柔道の聖地」といわれる、公益財団法人講道館が文京区にある。柔道家で教育家の嘉納治五郎が1882年に創立した柔道の中心地で、国内の柔道競技を統括する公益財団法人全日本柔道連盟の事務局も入居する。
強くなるためには、どうしたらよいか。自分で考え、様々なことからヒントを見つけ、柔道に応用し、新しい引き出しを増やすことを常に心がけている。興味好奇心が旺盛で、人懐っこく、ユーモアがある。練習は地道でハードだが、ふだんは明るく、何をしても楽しそうで、周囲に応援されやすい雰囲気がある。アイデアが次々に浮かぶが、どっしりと腰を据えて、粘り強く真っ向から基本に取り組むことも大事。大学に進み、自身を高めてくれるような人との出会いの機会をさらに積極的につくっていけば、視野も広がり、人を巻き込んで目標を達成していくスキルも身に着く。