~オリンピック・パラリンピックを目指すアスリートを応援~
東京アスリート認定選手・インタビュー(7)
瀬立モニカ選手(江東区) カヌー (2017/2/28)

東京都では、東京のアスリートが、オリンピック・パラリンピックをはじめとした国際舞台で活躍できるよう、競技力向上に向けた支援を実施するとともに、社会全体でオリンピック・パラリンピックの気運を盛り上げるため、「東京アスリート認定制度」を創設しました。

このページでは、認定選手の皆さんに「スポーツを通して自分を成長させ、スポーツと社会のよりよい関係を考えていこう」というテーマで、インタビューをしていきます。

瀬立モニカ選手の写真

第7回 瀬立モニカ選手(江東区) カヌー

【プロフィール】
せりゅう・もにか 1997年11月17日生まれ。宝仙学園高校卒業。筑波大在学中。
江東区カヌー協会所属。パラカヌーのクラスはPKL1。
第1回日本パラカヌー選手権大会 女子KTA優勝(2014)
パラカヌー海外派遣選手選考会 女子KTA優勝(2015)
パラカヌー世界選手権イタリア大会 女子KL1第9位(2015)
パラカヌー海外派遣選手選考会 女子KL1優勝(2016)
パラカヌー世界選手権ドイツ大会10位(2016)
リオデジャネイロパラリンピック8位(2016)

江東区に生まれたからこそ、パラカヌーと出合えた。
笑顔の力を糧に、地元で金メダルを獲得したい

楽しかったが、競技者として人として、まだまだ準備不足であることを痛感

昨夏、瀬立モニカ選手は、初めてパラリンピック出場を果たした。リオデジャネイロ大会の感想を尋ねると、目を輝かせて「本当に楽しかったです」と破顔一笑。「開会式にも出られたし、選手村ではすぐに友達ができたし。いろいろなことを感じられて、アスリートとしてはもちろん、人としても、勉強になることがたくさんありました。観客やボランティアの数もものすごく多くて、パラリンピックは普通の大会と全く違う。やっぱりすごいなぁと思いました」。
リオ大会から正式種目に採用されたパラカヌー。瀬立選手はリオ大会の4か月前に行われた世界選手権で11位となり、10位までに与えられる代表出場権を一旦は逃してしまったが、その後、他国に失格者が出て順位が繰り上がり、出場権を獲得。高校1年の夏の事故から3年。パラカヌーを始めて2年目で、快挙を成し遂げた。

練習中の写真

「正直、目指していたのは東京大会で、リオには間に合わないだろうと思っていたので、こんなに早く出られることになって、自分でもびっくりしました」
最短距離で目標達成できたのは、瀬立選手が1レースごとの反省を必ず次に生かすことができる、高い修正能力を持つことがあげられる。なぜ、負けたのか。どうしたら、もっと勝負できるのか。負けず嫌いで、前向きな性格。現状に安堵、満足せずに、ひたむきに突き進んできたから、今がある。

リオ大会当日は大きな緊張もなく、体も思い通りに動き、決勝の舞台へ。自信を持ってスタートラインに立った時、左から強風が吹き、一番左側の8レーンにいた瀬立選手は、もろに風を受けてしまうこととなった。そのとき一瞬だけ、不安が脳裏を横切ったという。結局それが敗因に繋がった。8選手中8位の結果に、悔しさだけが残った。
「どんな状況でも自分の力を出し切らなければならなかったのに、集中できませんでした。風に対する耐性もまだまだ弱いなと。トップ選手たちは、予選と決勝とで漕ぎ方を変えたり、ベテラン選手たちは漕ぎ方はうまくないのにパワーはものすごくあったり。そしてみなさんから、大舞台でも揺るがずに信じられるものを持っているという、強い意志が伝わってきました。自分は、いろいろな面で、まだまだ準備不足だと痛感しました」。

目指すべきはメダルでなく金メダル リオパラリンピックで得た刺激

選手村で出会ったパラリンピアンの明るさと、人としての魅力にも圧倒された。両足義足の選手が楽しそうに自転車を乗り回し、小人症の選手はいつもおしゃれを決めていた。
「皆自分が大好きで、自由に自分を表現していました。彼らに何かできないことがあれば、周囲の人達がごく自然にサポートしていて。それを見ていたら、私たちにできないことなんてないのかもと思うようになりました」。
パラリンピック会場に向かうバスで一緒になった、地元リオデジャネイロ出身、カヌー代表のカイオ(Caio Ribeiro de Carvalho)選手との出会いからも大きな刺激を得た。
「レース前は"地元開催で、すごくプレッシャーを感じている"と言っていましたが、大きな歓声を浴びながらスタートラインに立った彼は、いつもとは別人のようなアスリートの目つきをしていました。レースは見事銅メダル。祝福の言葉をかけると"金メダルじゃなきゃダメなんだ"と、すごく悔しがっていて。私も4年後は彼と同じく地元選手として漕ぐことになりますが、カイオの姿に自分を重ねて、メダルではなく"金メダル"を取らなきゃと思うようになりました」。

大会中の写真

瀬立選手は現在、週末は都内でカヌーの練習をし、月曜日からは筑波大学体育専門学群で体育を学んでいる。「事故に遭う前は、医師になりたいと考えて、高校に進学したのですが、パラカヌーと出合って、考えが変わっていきました。筑波大に進学したのは、総合大学なので幅広い分野の人たちと出会えて、学べることが多いのではと思ったから。実際、今はカヌーも勉強も充実しています」。
大切にしていることがある。それは「笑顔」だ。ケガをしてから周囲の視線を意識してしまい、時に心をふさぎたくなることもあったが、「母から贈られた言葉を信じて実践したら、不思議と様々な縁が巡ってきた」という。「あなたはいつも笑っていなさい。笑っていなかったら、人はあなたの周りからいなくなるから。でも笑っていたら、皆があなたの周りに集まってくるから」。

水彩都市江東区だからこそ巡ってきたチャンス 再びカヌーへ挑戦!

瀬立選手が生まれ育ったのは江東区。大小合わせて19もの河川や運河が江戸時代から縦横に走る水彩都市だ。その特色を生かし、2009年江東区立の中学校に在籍していれば誰でも入部できる拠点校方式のカヌー部が設立されると、2013年の東京国体に向けて区をあげて全面サポート。未来の日の丸選手を江東区から輩出すべく2012年には江東区カヌー協会も発足され、選手を全面サポートしている。瀬立選手は幼い頃から水泳に打ち込んでおり、中学生時代はバスケットボール部に所属するなどスポーツ万能。区から勧誘されて中学2年でカヌー部に入部し、東京国体を目指していた。しかし、試合を目前に控えた高校1年生の夏、体育の授業中に負った大ケガによって体幹機能障害となり、車椅子生活を余儀なくされた。「もうスポーツに関わることはない」そう思っていたが、それから1年後、かつて所属していた江東区カヌー協会から再びカヌーの誘いを受けた。自分にはできない。やりたくない。できるなんてそんな簡単に言わないでほしい。気持ちが揺れ、断り続けたが、協会の方の前で艇に乗れない姿を見てもらおうとでかけた川に、レジャー用と思われる安定感抜群の艇が用意されていた。乗ってみたら、予想外に「これならできる」という予感があった。カヌー協会の方から、「東京パラリンピックに出よう」。この一言が彼女の背中を押した。

競泳中の写真

初めはカヌーのポジションに座ることさえ困難だった。体幹が使えないため、姿勢維持ができずに顔をあげて前を向き続けることもできない。必死に練習を重ねるその姿に、地元の人たちも共感し、応援の手を差し伸べた。夢中になって漕ぎ、トレーニングを積んで2ヶ月で大会に出場。コーチと泣かない約束をして、心も強くなり、翌年には世界選手権へ。そして2年でリオパラリンピックに一気に上り詰めた。
「江東区に生まれたからこそ巡り会えたチャンスでした。カヌーや練習場所の提供、コーチの派遣までお世話になり、練習環境が整っていたからこそ、またカヌーに乗ることがきました。地元のみなさんの思いも載せて、東京パラリンピックに向けて頑張っていきたいです」。
今後は海外選手にも劣らないパワーを作りたい、パラカヌー強豪国への武者修行にも挑戦したいなど競技力向上に向けてやりたいことがいくつもある。笑顔を力に、瀬立選手は前へ前へと漕ぎ続ける。

パラカヌーはどんな競技?

パラカヌーは2016年のリオデジャネイロ大会から正式競技として採用された。この競技は200mのスプリントで競い、選手は、障害の程度によってL1(胴体が動かせず肩の機能だけでこぐことができる選手)、L2(胴体と腕を使ってこぐことができる選手)、L3(足、胴体、腕を使うことができ、力を入れて踏ん張るまたは腰かけて艇を操作できる選手)の3つのクラスに分けられる。種目は、カヤックとヴァーがあり、カヤックは、両端にブレード(水かき)のついたパドルを左右交互にこぎながら艇を前に進め、ヴァーは、艇の横にバランスをとるための浮き具がついており、左右どちらか片方のみをこぎながら前に進める。リオデジャネイロオリンピックでは、カヤック部門が行われ、東京オリンピックでは、カヤック部門、ヴァー部門が採用される予定。

日本障害者カヌー協会 https://www.japan-paracha.org/

【スポーツを通して身に着けられるライフスキル】

日々の経験から、自分がさらに強くなるポイントを探し出し、必ず次に生かそうとしている。笑顔が人を惹きつけ、新たな出会いから、たくさんの刺激と学びを得ている。思い通りにいかない壁にぶち当たった時に、どう向き合い、どう越えていくことができるか。しなやかでタフな突破力を磨けば、さらにフィールドは拡がっていく。